千慮の一得

Between facts and delusions

名医、かくありなん

こんにちは、伊藤です。

 

 1月5日、金曜日の朝。

前回の記事でお話した風邪が治らないまま、仕事始めを迎えてしまった。

クリスマス前から、かれこれ3週間も寝込んでいる。

咳をしすぎて胸が痛くなってきてしまったし、このまま一人で治すのも限界のようだ。

こんなに胸を痛めているのは初恋に破れた中学時代のときと、

女性に「伊藤さんて何で結婚しないんですか?」って言われたときぐらいだ。

 

こういうとき「なんで?」と言われても答えに困ってしまう。

もし、正解があるなら僕が教えて欲しい。

そもそも、人間はなんでも自分の思うとおりにできるわけじゃない。

自然の流れに身を任せていたら、たまたま独身のままだったというだけだ。

 

それは例えば、東京から北海道に行こうと船に乗っても、

潮の流れが南に流れていれば沖縄についてしまうようなもの。

ラーメンを食べようと思って中華料理屋に入っても、

いつの間にか餃子とビールが出てきてしまうようなもの。

そう、全てはしかたのないことなのだ。

 

「出社したらすぐ病院に行こう」

 

仕事の合間に医者に行くことも、またしかたないことなのだ。

僕はそう決心を固めて会社に向かった。

 

 

自転車で約20分の通勤。

この冬で一番の寒さじゃないかってぐらいの冷え込みの中、

空はまるで天使が生まれたようにキラキラと晴れている。

 

しばらく走ると僕の好きな道にさしかかる。

葉を落とした黒々とした木々が立ち並ぶ坂道。

この下り坂をすこし勢いのついた自転車で走ると、

爽やかな日差しと木々の影が、リズムを刻んで降りかかってくる。

 

「ああ、なんて気持ちがいいんだろう」

 僕は、7日ぶりの通勤風景を満喫していた。

しかし、それもつかの間、やがて久しぶりにシャバの空気を吸った僕の気管支が、

外に無理矢理だされたニートのように激しく暴れ出す。

結局、もうなんか、体の中身が全部出てしまうんじゃないかというぐらいに咳き込みながら、僕は会社に到着した。

 

 

会社に着くと「おめでとうございます」と、

みんなが新年の挨拶をしている。

しかし、僕はそれどころじゃない。

めでたいか、めでたくないかという以前に、酸素が足りないのだ。

人間に必要な酸素が足りない人間にとって、めでたいとかめでたくないとか議論する余地はない。

そう思いながら、僕はやや離れた場所にいる部長を見つけると彼の前に歩み寄る。

すると、部長が僕を見つけ笑顔で挨拶をしてくれた。

 

「伊藤さん、あけまして…」

「部長…耳鼻科に行ってきまっ!ゲホゲホッ!ゲホゲホッ!」

「行ってらっしゃい…」

 

こうして僕は、部長に丁寧な挨拶をしたあと耳鼻科に向かった。

 

 

耳鼻科は、会社から自転車で5分ほど走ったところにある。

茶色のレンガ調タイルでできた、こぢんまりとした建物。

待合室には、4人掛けのイスが5つ程ならんでいるが、

そこに他の患者さんが座っているのを見たことは、ほとんどない。

 

こう書くと、この病院大丈夫なのかと思うかもしれないが、

ここの先生は近所でも評判の名医だ。

僕も何回か診てもらったことがあるけれど、とても丁寧な先生だという印象がある。

ただ、一つだけ難点があるとすれば、

この先生が、アンパンマンに出てくるジャムおじさんそっくりだということ。

診察中に思い出して笑ってしまうのだ。

 

そうなると、受付の女性がバタ子さんに似てるとなれば面白いのだけれど、

実際は、女優の石田ゆり子に似た美人で、愛想の良いお姉さんだったりする。

この耳鼻科は、そんなアニメと実写な二人で切り盛りしている素敵な病院なのだ。

 

 

耳鼻科に着くと、正月休み明けのせいか、

いつもはガラガラのはずの待合室に人がいっぱいいた。

子供と母親の2人づれが三組。

70代くらいのおばあさんが一人。

30代くらいの男性と女性が一人ずつ。

そこへ、僕が受付の石田ゆり子に診察券を出したことで、

40才独身男性(お嫁さん募集中)が加わった。

 

 

待合室は、エアコンの暖房が効いているはずなのに寒かった。

しかし、子供たちは母親と一緒に居られるのが嬉しいのか寒さなど気にせず、

母親に頭をこすりつけたり、本を読んでとせがんだりして甘えている。

僕もこのぐらいの歳のころは、母親に甘えていたな。

そんな昔の記憶を思い起こしていると、一人の子供が診察室に呼ばれて入っていった。

間もなくして、その子の絶叫が聞こえてくる。

診察室に残された子供達に恐怖が走る。

いつの時代も繰り返される、おなじみの光景だ。

ある男の子は「僕はあんなに泣かないよ!」と母親にアピールしてみせている。

 

そんな恐怖と勇気でいっぱいの子供達をよそに、

大人達は冷えた体を温めようと縮こまっている。

そのとき、おばあさんがおもむろに立ち上がった。

トイレにでも行くのかな。僕はそう思ったが正解は違うようだった。

おばあさんは「あー、さむいさむい」と言いながら受付の方に歩いていったのだ。

きっと、受付の石田ゆり子に暖房の温度をあげてもらうんだろう。

僕がそんな風に思っていると、おばあさんは受付の脇にある空気清浄器の前で立ち止まった。

そして「はぁ〜っ」っと深いため息を吐きながら、「あったかい」と小さくつぶやく。

 

…空気清浄機と暖房を間違えてる!!

 

そこにいる誰しもがそう思いながら、誰も突っ込むことができず時間だけが過ぎていく。

やがて、おばあさんをはじめ、僕の前にいた人達が全て呼ばれ、いよいよ僕の番がやってきた。

 

 

名前を呼ばれ診察室に入ると、見慣れたジャムおじさんが座っていた。

いや…よく見るとジャムおじさんが、なんだか老化している。

前よりも少しだけ体が小さく、そして髪の毛が薄くなっていた。

しかし、そこは名医、問診は順調に進んでいく。

 

「どうしましたか?」

「三週間くらい前から風邪で寝込んでまして。今は主に咳がひどいです。」

「ほかの症状はありますか?」

「鼻がすごく出ていましたが今日は割と楽です。代わりに右の耳が痛いです。」

「えーっと、三ヶ月前から?」

「いや、三週間です。」

「三週間ですよね」

いつの間にか、僕の脇に石田ゆり子が立っていて、

先生の質問に答える僕のフォローをしてくれていた。

 

「それでは、鼻を見るので上を向いてください」

先生はそう言うと、鼻の中を確認する器具を掴み、僕の方に歩いて来る。

でもちょっと待って。器具を持つ先生の手が震えている。

老化による震えだと思うけど、こんな震えで鼻の中をかき回されてはたまらない。

これでは、治療しに来たつもりが、危うく病院送りにされてしまう。

 

「ちょ…ちょっと待っ…」

 

恐怖にひきつる僕がそう言いかけたとき、

 

「キューッ!キューッ!キューッ!」

 

突然、携帯電話から、けたたましい音が鳴り響く。

続いて「地震です!地震です!」というアナウンスが聞こえてくる。

 

ああ、そうです。そうなんです。

地震です。地震なんです。

震源地はここですよ。この先生ですよ。

誰かこの震源地を止めてください。

一刻も早く、今すぐに!

 

僕が目をつむり、誰に祈るともなく祈っていると、

アースクエイク・ジャムおじさんは、地震警報に臆することなく僕の鼻に器具を突っ込んできた。

終わった。僕はここで鼻の穴の中をかき回されて終わるのだ。

ふいに、楽しかった日々を思い出す。

待合室で「僕はあんなに泣かないよ!」とお母さんに話していた男の子。

空気清浄機の前で暖をとっていたおばあさん。

今では全てが素敵な思い出です。

本当にありがとうございました。

ああ、どうせなら、僕も幸せな家庭というものを築いてみたかったな……。

だんだんと意識が遠のいていく……。

 

……終わりましたよ。

石田ゆり子のその言葉で僕は目を覚ました。

どうやら、診察は終わっていたようだ。

 

手の震えを心配していたが、そこは名医。

鼻の中に器具が入った瞬間、震えはピタッと止まっていた。

そして地震速報が鳴り響く中でも保ち続ける集中力。

そんな名医が名医たるゆえんを改めて感じながら僕は診察室を後にした。

ちなみに病名は「咳ぜんそく」ということだった。

いろいろと苦しい思いもしたが、病名もわかり薬も手に入れ会社へと戻る。

ただ一つ、診察された記憶のない耳の痛みを残して。